河川レポート

菩提川 ♪菩提日和 ぼだいびより♪

興福寺

2012年04月13日



幾つもの源流を有する菩提川、その流れの一つ春日大社御神水(菩提川)が静かに流れ込む猿沢池の北に五重塔、五十二段で有名な興福寺はあります。
                                                               

 


 法相宗の大本山として知られる興福寺。前身は飛鳥の「厩坂寺」(うまやさかでら)であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足(中臣鎌足・なかとみのかまたり)が重い病気を患った際に、夫人である鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われています。
 その後、壬申の乱(672)の後、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられました。(山階寺→厩坂寺→興福寺と2度名前を変えています。)
 現在の場所は、奈良県奈良市登大路町48番地で、「唐の長安城」を模して造営された「平城京」の正式な方形地域内から外れた東側の突出した場所にあり、その地域は「外京(げきょう)」と呼ばれています。
 天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、奈良時代には四大寺(薬師寺、元興寺、 興福寺、大安寺)、平安時代には七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺)の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護されました。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となりました。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」(なんとほくれい:「南都」は奈良のこと。奈良には仏教の大きな派閥が六つあり、法相宗(ほっそうしゅう)興福寺はその代表。「北嶺」は比叡山のこと。延暦寺の僧兵は山法師、興福寺の僧兵は奈良法師として権勢を振るいました。)と称されました。
 藤原氏の繁栄とともに寺領を拡大していき、神仏習合の影響をうけ、春日社と一体化し、時には僧兵をしたがえて朝廷へ強訴に及ぶまでになり、周辺には塔頭(たっちゅう:禅寺で、祖師や大寺・名刹の高僧の死後、その弟子が師の徳を慕って、塔(祖師や高僧の墓塔)の頭(ほとり)、または、その敷地内に建てた小院であるが、寺院の敷地内にある、高僧が隠退後に住した子院。)と称する多くの付属寺院、堂塔伽藍(どうとうがらん)が百数十棟が建てられ、僧侶は、4,000人の多数を数えました。天禄元年(970年)定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えました。南都七大寺の中で最も密接に奈良の街とつながりを持ちながら発展しました。
 幾度の火災に見舞われましたが、その度に復興を繰り返し更に寺勢を拡大してきました。その中でも治承4年(1180年)、源平の争いの最中、平重衡の兵火による南都焼討の被害は甚大でありました。 東大寺と共に大半の伽藍(がらん:寺院または寺院の主要建物群、伽藍を構成する主な建物として、俗世間との境界を示す山門、本尊を祀る本堂、仏塔、学習の場である講堂、僧の住居である庫裏、食堂(じきどう)、鐘楼、東司(とうす)、これらの要素の名称、配置や数は宗派、時代によって異なり、古くは鎌倉時代の『聖徳太子伝古今目録抄』では金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂の七つあるのが伽藍、とされています。)が焼失しました。その復興には興福寺に所属した運慶達の活躍によって、旧に倍する寺宝が造くられました。江戸時代の享保2年(1717年)の火災の時は、北円堂、東金堂、食堂(じきどう)以外の伽藍を消失しましたが、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などは再建されませんでした。
 源氏政権時代でも大和一国を支配し、大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていた興福寺の権勢を認めざるを得ず大和の守護を興福寺に任せ、中世には大和の多くの寺院を私院化(末寺)するだけでなく、商工業の同業組合である「座」を統制管理して莫大な利益をあげました。代表的な「座」には「墨座」「そうめん座」「油座」「酒座」などがあり、中世の織田信長が開いた「楽市楽座」のような自由経済ではなく、独占的な市場形態でした。
 大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けましたが、安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1000余石とされ、徳川政権下においても2万1000石の朱印を与えられて保護されました。
 明治元年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は大きな打撃を受けました。子院はすべて廃止、寺領は没収され、僧は春日社の神職となり、境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまいました。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売り出される程でした。それにさきがけ、興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は奈良華族として還俗させられていました。1881年(明治14年)、行き過ぎた廃仏政策が反省され興福寺の再興が許可されました。1897年(明治30年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っています。 しかし、寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態で、「信仰の動線」が欠落していると称される状態は、この時の名残です。
 藤原氏の氏寺として威容を誇った広大な境内地が現在は、奈良公園の一角にあるように見えますがそうではなくて奈良公園が興福寺の境内だったのです。
 廃仏毀釈は興福寺にとっては大変な災難であり、文化的には取り返しの付かない損害を大きく残し、歴史的には反省する所が多くあります。しかし、世界に誇れる庶民の憩いの場「奈良公園」は、こうして誕生したのです。現在でも「鐘楼」は、ありませんが、廃仏毀釈時の境内敷地約7000坪は、現在では相当数の坪数まで寺域が回復されました。1998年に世界遺産に登録され、1999年から日本国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められており、平成22年(2010)興福寺は創建1300年を迎えました。
                                                               

 


 興福寺には中金堂、東金堂、西金堂の3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像が安置されていました。最初に「中金堂」(ちゅうこんどう)が鎌足の次男・不比等によって建立されました。私寺として始まりましたが不比等は律令政治に多大な貢献をした為、天皇、皇后の勅願により北円堂をはじめ東金堂(とうこんどう)、五重塔、西金堂(さいこんどう)の堂塔が建立され私寺から官寺扱いになりました。不比等を表の実力者とすると、不比等の妻である「橘三千代」は裏の実力者でした。歴代の天皇に仕え後宮で勢力を振るいました。三千代の前身は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)で「橘」の姓を天皇から賜りました。それだけに橘は偉大な姓で、三千代の先夫の子・葛城王も朝廷に願い出て橘諸兄に改姓しました。不比等と三千代との娘・光明皇后は、夫の聖武天皇が東金堂を建立したのに対し亡き母・三千代の一周忌供養のために「西金堂(再建後江戸時代に焼失)」を建立しました。寺の中心部には南から北に南大門、中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には南から五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には南から南円堂、西金堂、北円堂が建っていました。境内南西隅の一段低い土地に三重塔が、境内南東部には大湯屋がそれぞれ建てられていました。これらの堂宇(どうう:堂の軒。堂の建物。)は、創建以来たびたび火災に見舞われ、焼失と再建を繰り返してきました。明治期以降、興福寺の境内は奈良公園の一部と化し、寺域を区切っていた塀や南大門もなくなりました。
                                      


五重塔
 五重塔(国宝)は天平2年(730年)、興福寺の創建者藤原不比等の娘にあたる光明皇后の発願(はつがん)で創建されたもので、国宝に指定されています。現在の塔は、5回の焼失・再建を経て、応永33年(1426年)に創建当初の位置に再建されたもので、古様(いにしえざま:昔の事)の三手先斗(みてさきときょう)を用い、花崗岩の壇上積基壇の上に建ち相輪高15.08m、全高50.10mの高さを誇ります。木造の塔では京都・東寺に次ぎ日本では2番目の高さです。

                 
             


北円堂
 北円堂(国宝)は養老5年(721年)、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇、元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させたものです。現在の建物は承元2年(1208年)頃の再建で、興福寺に現存している建物の中では最も古い建物です。法隆寺夢殿と同様、平面が八角形の「八角円堂」です。現在、回廊の復元計画中です。
 中には木造弥勒仏坐像(国宝)、晩年の運慶が一門の仏師を率いて建暦2年(1212年)頃に完成したもが安置されています。
                                      


南円堂
 南円堂(重文)は弘仁4年(813年)、藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂追善のため創建しました。現在の建物は寛政元年(1789年)の再建で重要文化財に指定されています。北円堂とは違い、赤と緑でとても目立つ建物で、八角堂としては、日本で一番大きいものになります。創建時の本尊は、もと興福寺講堂に安置されていた不空羂索観音像です。この像は天平18年(748年)、その前年に没した藤原房前の追善のため、夫人の牟漏女王、子息の藤原真楯らが造立したものです。堂は西国三十三箇所の九番札所として参詣人が絶えないが、堂の扉は常時閉ざされており、堂の扉は10月17日の大般若経転読会の日にのみ開扉されます。
             

中金堂
 藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定されます。のちに東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれています。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返したが、江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、篤志家の寄付によって再建されました。この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り以上小さかったが、興福寺国宝館の開館(1959年)までは、高さ5.2メートルの千手観音像をはじめ、現在興福寺国宝館で見られる仏像の多くを堂内に安置していました。また、朱色に塗られていたため「赤堂」として親しまれていました。仮の堂として建てられたため、長年の使用に不向きである安価なマツ材が使用され、瓦も安物が使われたために経年による雨漏りがひどく、1974年に中金堂裏側の講堂跡に仮金堂(奈良・薬師寺の旧金堂を、大改造により外観を変えて移築したもの)が建てられ、本尊などはそちらに移されました。文政再建の仮堂の中金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して2000年に解体されています。なお、仮金堂解体後の発掘調査も終了し、創建1300年の2010年着工、2015年完成をめざし、創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設と境内の整備が進められています。仮金堂内には興福寺の本尊である釈迦如来坐像(江戸時代の再興)のほか、以下の諸仏を安置しています。 木造薬王菩薩・薬上菩薩立像(重文)像高3.6メートルの巨像。現在は中金堂本尊釈迦如来像の両脇に安置されるが、本来は廃絶した西金堂本尊・釈迦如来像の脇侍として、鎌倉時代の建仁2年(1202年)造立されたものです。 木造四天王立像(重文)、鎌倉時代、運慶の父・康慶一門の作で、もとは南円堂にあったものです。 
                                       


三重塔
 三重塔(国宝)は、康治2年(1143年)、崇徳天皇の中宮・皇嘉門院により創建されました。治承4年(1180年)の大火による焼失記録はないが、現在の塔は建築様式から大火後まもなく北円堂と同時期の13世紀初に再建された鎌倉建築と考えられています。南円堂のすぐ近く、興福寺境内の西南の隅に位置します。高さ19mの小塔で、華奢で優美なつくりで、塔本体に比較してその上に載っている水煙が非常に長く見えます。三重塔は北円堂と並んで興福寺に現存する建物の中でもっとも古いものであり、仏教建築として非常に優れていることから国宝に選定されています。
                                      


西金堂跡
 天平6年(734年)、光明皇后が母・橘三千代の一周忌に際し、釈迦三尊を安置する堂として創建した。江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は現在まで再建されていません。今は、その跡に西金堂跡の碑があるだけとなっています。
                                                               


東金堂
東金堂は西向きに建てられています。戦乱、天災による焼失を繰り返して六度目の室町時代の復古建築です。興福寺は飛鳥寺のように「三金堂」形式です。これは、蘇我氏の飛鳥寺に対抗して三金堂形式にしたと言われています。柱の間は端から9・10・14・14・14・10・9尺です。創建当時は中央の柱間の立面空間が正方形となりますが、再建時、禅宗様などの影響で柱が高くなり、立面空間は縦長の矩形となりました。和様建築の特徴である「白壁」が眼に沁みます。扉は正面の三間と背面の一間で側面は総べて白壁です。創建寺の「地円飛角」の様式を踏襲して保守的に施工したのが地垂木の四隅に丸味をつけて楕円状にしたものです。古代では「仏堂」そのものが神聖な空間で僧といえども入堂出来なく、儀式は前庭で行われる庭儀でありました。時代が下ると仏堂内で簡単な法要が行われるように変わり、必然的に、扉が内開きから外開きとなりました。ギリシャ建築を思わせる「列柱」は「唐招提寺金堂」と同じですが、唐招提寺のように開放された空間でなく、白壁で閉じられています。
             


不動堂
南円堂の東側に、小さな不動堂があります。勤行の僧の焚く護摩の炎が大きくあがる護摩供養が盛んに行われる為、その内部が黒いのが見られます。外から見ると、入口の上、「不動明王」の額のあたりが真っ黒にすすけています。堂の上には、興福寺を創建した藤原氏をしのぶ「左近の藤」と呼ばれる大きな藤棚がかかっています。この藤と南円堂の風景はとても美しく、「南円堂の藤」として、奈良八景のひとつとなっています。

             

一言観音堂
南円堂の北東側に、一言観音堂という小さなお堂があります。ここの観音様に一つだけ願いごとをすると、その一つだけを叶えてくださるということで、昔から庶民の信仰を集めています。

                                      

大湯屋
 五重塔の東方に建っています。五重塔と同じく応永33年(1426年)頃に再建されました。

                                                                                               

菩提院大御堂
 五重塔の南、三条通りを渡ったところに建っています、興福寺の子院です。現在の堂は天正8年(1580年)の再建で、本尊阿弥陀如来坐像(重文)などを安置しています。

                                                                     
本坊
 境内東方に建っています。一般には公開されていません。
          


国宝館
 1874年(明治7年)、廃仏毀釈のあおりで興福寺が荒廃していた時代に取り壊された食堂の細殿跡に、1959年に興福寺宝物収蔵庫として建立されました。鉄筋コンクリート造ですが、外観は旧・食堂を模した寺院建築風です。内部にはもと食堂本尊の千手観音の巨像(高さ5.2メートル)が中央に安置され、仏像彫刻をはじめ、絵画や工芸品、考古資料や典籍文書など、すぐれた作品を展示しています。「拝観券」の表紙にもなっている阿修羅像は国宝で、3つの顔と6本の手を持つ三面六臂(さんめんろっぴ)のものです。阿修羅像でありながらその顔はおだやかで、脱活乾漆造りで有名なものです。その他にも多くの国宝や重要文化財が展示されています。2010年3月にリニューアルオープンし、従前に比べ展示点数が増えたほか、文化財に与える悪影響が少ないLED照明が採用されたことにより、多くの仏像がガラスケースなしで見られるようになりました。
                                                               


一乗院門跡
 一乗院は、第6代門主覚信が関白藤原師実の子息だったことをきっかけに、代々、摂家あるいは皇族が門主を務める門跡寺院のひとつとなりました。その後、五摂家分立以降は近衛家の管領となり、近衛家流(近衛家・鷹司家)の子弟が門主となる例が多くありました。足利義昭は、もともと近衛稙家の猶子として法名覚慶を名乗り一乗院の門跡となっていましたが、兄義輝の殺害にともない還俗し、織田信長の援助を得て将軍となったものです。大和の国衆でのちに戦国大名化した筒井氏は一乗院の衆徒の筆頭です。江戸時代に入って後陽成天皇の皇子尊覚が門主となったのをきっかけに親王が門主をつとめるケースも多くありました。久邇宮朝彦親王は、もと一乗院の門主であったが、その後青蓮院に移されたものです。摂家や親王家と同様に諸大夫以下の専属の家司もおり、摂家・親王家と同格の立場を誇っていました。また奈良だけではなく、京都今出川の桂宮邸と御所の間に「里坊」と呼ばれる屋敷を持っていました。現在、一乗院門跡は、奈良地方裁判所の敷地となっています。


大乗院門跡
 大乗院は、これも藤原師実の子息である尋範が門主となったのをきっかけに門跡寺院となりました。こちらは九条家の管領に属し、九条流(九条家・二条家・一条家)の子弟が門主を務めるところでした。戦国時代には、日記『大乗院寺社雑事記』で著名な門主尋尊(一条兼良の子息)が出ています。足利義昭が将軍の地位を追われたあと、義昭のひとり息子が出家して法名を義尋と名乗り大乗院の門主となっています。一乗院が筒井氏を衆徒としたように、大乗院も古市氏を衆徒としています。諸大夫以下の家司や里坊を有し、摂家・親王家と同様の格式を誇ったことは一乗院と同様であるが、親王が門主となった例はありません。興福寺の最高職である別当は、一乗院門主と大乗院門主が交互に就任するならわしでした。興福寺がその権限を行使していた大和国守護職についても両院が共同で管理していました。江戸時代には世俗的権力を失い、幕府から一定の知行(一乗院が1,492石、大乗院が951石)を与えられた単なる寺院となりました。両院とも明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。現在、大乗院門跡は、旧大乗院庭園となっています。
                                    


茶臼山
 南円堂の近くに、「茶臼山」と呼ばれる高さ2メートルばかりの芝生の築山があります。昔、興福寺の南大門に「月輪山」という山号の額がかかげられましたが、その後さまざまな災いが発生したので、やむなくその額を境内に埋め、そこにこの築山を造って額の塚としました。以降、興福寺では現在も山号は無いままです。

五十二段
 現在は、興福寺の施設ではありませんが、興福寺と猿沢池の間に「五十二段」と呼ばれる石段があります。善財童子が五十二人の知識人を尋ねまわった古事に因み五十二の階段は仏門に入る修行の段階を表現しています。『五十二段』の下は『六道の辻』と呼ばれます。石段も入れると、六本の道が放射状になっています。前世の暮らし方によって、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上のいずれかに生まれ変わるというその選択肢を表しています。仏教用語には五十二位というものがあり、大乗仏教として菩薩の修行の段階を五十二に分けたものをいいます。五十二位の下位から、十信・十住(解)・十行・十回向・十地・等覚・妙覚と位が付いています。最初の十信を外凡、十住・十行・十回向を内凡(三賢)といいます。そして十地の初地(四十一位)から聖者の位に入ります。初地は「歓喜地」で、次に離垢地・発光地・炎慧地・難勝地・現前地・遠行地・不動地・善慧地・法雲地・等正覚と続き、五十二位は「妙覚」で仏覚、仏です、仏そのものであり、菩薩ではありません。(ぼさつ:成仏を求める者で、如来に成ろうとする修行者です。菩薩は、修行中ですが人々と共に歩み、教えに導くということで信仰の対象となっています。)
                                                               

 


 興福寺は、聖・俗両界に絶大な権力をふるいました。生み出された数々の独創文化は多方面に渡ります。仏教心理学や能・狂言などの学術や芸能。さらには運慶に始まる慶派彫刻などの芸術分野。また、豆腐や味噌や清酒などの食文化。哲学に始まり食に到るまで、それらは現在の私たちの身近な伝統文化として息づいています。


薪能
 元々神仏に薪をお供えするための儀式でした。全国で薪能が行われている中で、興福寺の歴史が最も古い伝統があります。薪能の始まりは869年と言われていて、春日山の一角から運ばれた薪を使った神聖な明かりの中、西金堂で猿楽が演じられていました。そして猿楽が進歩して薪能となっていったのです。西金堂は焼失してから再建されることはありませんでしたが、西金堂跡の碑の前には、「薪御能発祥の地」の碑が建っています。能楽日本最古の行事でもある興福寺の薪能は、その源流でもあることから、尊敬し、敬う気持ちを洗わして「御」の字があてがわれ、「薪御能」と呼ばれています。
                                                                                                                      
 毎年春・秋の2回、能楽が奉納されています。よく知られるのが、5月の第3金・土曜日の両日に南大門の「般若の芝」で催行される『薪御能』で、日本全国のあまたある野外能の本家・本元とされるものです。そのはじまりは古く、貞観11年(869)に西金堂で行された修二会の法呪師と呼ばれる人々の神秘的祈祷所作に求められます。やがて、その役目は法呪師から猿楽呪師に委ねられ、後に観世の世阿弥陀金春の善竹を輩出した猿楽は高い芸術性を帯びながら、南北朝時代以降は能楽へと変遷していきました。金春・金剛・宝生・観世の四座が一堂に会するのもこの薪御能ならではであり、興福寺衆徒による「舞台改めの儀」も今に伝えられています。



 天平勝宝2年(750)2月孝謙天皇が唐人李元環に外従五位下を授けるため春日酒殿に行幸します。これが奈良で「酒」が史料として見られる最初といわれています。その他に、春日祭神酒として白酒・黒酒および神主酒(一夜酒)が知られていますが、今の清酒とは違います。平安時代も末、神仏習合思想が浸透し、祭政一致が叫ばれるようになりました。大和国(奈良県)支配を目指す興福寺は、大和は春日の神国と認めるものの、国司を追払ってしまいました。そして、興福寺は春日の杜に若宮を創設し、春日の祭祀権を奪うことに成功し(保延元年、1135)、名実ともに大和の支配者となりました。その後も、源氏に味方し、鎌このころに「元興寺酒座(さかざ)」が記録されています。酒造販売の始まりのようです。春日若宮神人(じにん)で興福寺寄人(よりうど)の身分をもらった人が元興寺付近で営業を始めたものです。聖俗両界に絶大な勢力を築いた春日社興福寺で、僧兵の親玉として知られる衆徒(しゅと)は、興福寺の御家人のようなもので各領地を治め興福寺に年貢を収めます。倉庫となるような建造物は至る所にあり、多くの米が集る、大寺には井戸や近くには川があって、大量の清浄な水が確保できる。このように酒造の条件が揃います。やがて、興福寺配下の菩提山正暦寺や鳴川寺成身院、影響下の河内天野山金剛寺で僧坊酒が量産されるようになりました。桃山時代に入ると、莫大な収入に目をつけた秀吉が、僧坊酒造りを禁止して独占しますが、奈良酒、天野酒の人気は世を席捲し、酒・清酒と言えば奈良でありました。秀吉が引き抜いた酒造りの職人達は、伏見、次に灘で技を磨いたといわれています。


宝蔵院流槍術
宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)は、奈良が発祥の武道です。その流祖は覚禅房胤栄(かくぜんぼう いんえい)といい、奈良・興福寺子院の宝蔵院に住し、十文字鎌槍を活用した独自の槍術(そうじゅつ)を創始して日本有数の槍術流派の基を築きました。慶長12(1607)年87歳で遷化しました。

 

 
 東金堂(国宝)は神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正太上天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建しました。治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵は飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、東金堂本尊に据えました。東金堂はその後応永18年(1411年)に五重塔とともに焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建の室町時代の建築で、様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式です。平面規模は、創建時の堂に準じています。堂内には以下の諸仏を安置しています。 銅造薬師三尊像(重文)中尊は応永18年(1411年)の火災後の再興像で室町時代の作です。脇侍の日光・月光(がっこう)菩薩像は応永の火災の際に救出されたもので、奈良時代の作です。 木造維摩居士(ゆいまこじ)坐像(国宝)本尊薬師如来の向かって左に安置。鎌倉時代、建久7年(1196年)、定慶(じょうけい)の作。維摩は大乗仏教の重要経典の一つです。「維摩詰所説経(維摩経)」に登場する伝説上の人物で、在家仏教徒の理想像とされています。興福寺では山階寺の創建直後に藤原鎌足が維摩経を講賛・供養する維摩会を始めさせ、以後、最重要の法会の一つとして現在に至るまで毎年10月に執り行われています。その経緯などから維摩は藤原氏の篤い信仰を集め、また興福寺においても特に重要な存在と見なされています。木造文殊菩薩坐像(国宝)本尊薬師如来の向かって右に安置され、上記維摩居士像と対を成す。作者は不明ですが、維摩像と同じ頃、定慶の手になるものと推定されています。維摩経のクライマックスにあたる文殊と維摩の問答の場面を表現したものです。
 木造四天王立像(国宝)堂内四隅に安置。堂内の他の像より古く、平安時代前期の重厚な作風の像です。 木造十二神将立像(国宝)薬師如来を守護する12の眷属の像。鎌倉時代、建永2年(1207年)頃の作。
 天下第一の仏師と言われた「運慶」はじめ後に慶派といわれる仏師たちは当初興福寺に属しており華々しく活躍の表舞台に出るまでは南都で天平の名作の修理に従事して細々と活躍しておりました。公家貴族に愛されたのは京仏師で爪弾き状態にあった奈良仏師に幸いしたのは時代が平安貴族社会から鎌倉武家社会に変わったことであります。もし、興福寺、東大寺に壊滅的な被害を与えた「南都焼討ち」がなければ慶派が表舞台に出る機会はなかったかもしれません。康慶、運慶、快慶、定慶、湛慶など慶の付く仏師の集団だから「慶派」と呼ばれました。「慶」の付く仏師は少なく殆どが「康」の付く仏師で例えば「法隆寺金堂の西本尊阿弥陀如来坐像」を造像した運慶の第四子は、「康勝」と称されました。


乾漆八部衆立像・阿修羅像
 乾漆八部衆立像(国宝)奈良時代の作。もと西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つ。八部衆とは沙羯羅(さから)、鳩槃茶(くばんだ)、乾闥婆(けんだだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、畢婆迦羅(ひばから)、五部浄(ごぶじょう)の8体が揃って現存しますが、五部浄像は大破して胸から下の体部が失われています。
                                      
 中でも三面六臂(さんめんろっぴ:顔が3つに、手が6本)の阿修羅像が著名です。阿修羅像は、漫画家の、みうらじゅん氏が会長を務め、ロックグループのTHE ALFEE(ジ・アルフィー)のギタリスト:高見沢俊彦氏等が名を連ねる「阿修羅ファンクラブ」等があり数多くのファンがおり、大変人気があります。
                                     


 廃仏毀釈が騒がれた頃、奈良公園のシンボルである興福寺の五重塔や三重塔が破格の値段で、叩き売り状態で売りに出されました。興福寺は宗名や寺号を名乗ることも許されず、境内以外全て没収されるという窮地に立たされ、廃寺同様になってしまいます。買い手のついた五重塔は、薪にしようとする説と、相輪をスクラップで売ろうとした説とがあります。売買金額は、「相輪」をスクラップにした程度の金額(当時約25円)で売買が成立しました。売買の後、五重塔に火を付けて上部の金物だけを回収しようと計画しましましたが、近くの人家に類焼する恐れがあると奈良町の人々の大反対により、なんとか無事に残されました。興福寺の再興が熱心に願われ、明治14年にようやく寺号の複合が許されました。翌年には管理する権利が興福寺に返され、再興への道を歩み、1998年には世界遺産に登録されるまでになるのです。

 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは、明治維新後に成立した新政府が慶応4年3月13日に発した太政官布告(通称:神仏分離令、神仏判然令)、明治3年1月3日に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などの仏教排斥運動を言います。神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまいました。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われました。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などを急激に実施したために混乱しました。明治4年(1871年)ごろ終熄しましたが、大きな損害と影響を残しました。1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で寺社領上知令が布告され,境内を除き寺や神社の領地が国に取り上げられました。それまでに暴力的な破壊をこうむっていた寺が、これにより経済的な基盤を失い、一層困窮し、荒廃することになりました。奈良県天理市杣之内町にかつて存在した「内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)」は、東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ待遇を受ける大寺院で、興福寺に繋がり、その規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」とも呼ばれましたが、破壊しつくされ廃寺となり、残念ながら今は痕跡すら残っていません。



 弘法大師空海は、興福寺南円堂の建立の無事を祈り天川弁才天に参籠するなど、興福寺と浅からざる縁がありました。その弘法大師が東金堂の本尊薬師如来に永代の花として捧げたという松の子孫が東金堂の前にそびえており、「花の松」と呼ばれ親しまわれていましたが、松食い虫の被害により枯れてしまい、2008年頃に撤去され、今は石碑があるだけとなっています。
                                                                                                                      

 
地下駅である「近鉄奈良駅」の階段を上がると、噴水池の中に「行基菩薩像」と「ひがしむき」の看板があります。「行基」さんは僧であるのに、菩薩という称号を与えられているのは、社会に尽くされた業績の大きさを著すものです。(畿内を中心に民衆や豪族層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬されました。道場・寺を多く建てたのみならず、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を、困窮者のための布施屋9ヶ所等の設立など社会事業を各地で行いました。朝廷からは度々弾圧されましたが、民衆の圧倒的な支持を背景に後に大僧正として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺等)建立の実質上の責任者として招聘されました。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられています。行基菩薩像は東大寺の方角を向いて建立されています。)ひがしむき商店街は興福寺に隣接しており、歴史は古く、その昔、興福寺の門前町として通りの西側にだけ商家が並んだ結果東向きの商店街が出来たことに由来します。
                                                               

 なお、興福寺は、人気アニメ:名探偵コナン ・天空の難破船 (劇場版)に登場するお寺のモデルになっています。

  アクセス
 近鉄奈良駅の南東約400m(JR奈良駅の東約650m)、三条通り東端。奈良の中心市街地・通称“なら町”の北。

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